昭和49年08月29日 朝の御理解
御理解 第43節
「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」
生き死にを通してご厄介にならなければならないのが、天地であります。天地から出でていわゆる天地に帰る。自然淘汰と言うような言葉で申しますね。大地から出でて大地に帰る必要でなくなる。それがいわば消えてなくなる。ほんなら無くなるからもうそれまでかと言うとなくなってからでも、矢張り天地乃親神様のおかげを受けなければならない。もう私は丁度四日間ですかね。四回参ってきます。
四日間お取次ぎをさせて頂いて、日田から井上さんという方がお導きを頂いて参ってきよる、娘さんが参ってくる。お母さんが七年間病気で入院しておられる。それがもうどうせ駄目だからと言うので、家に帰られる。まぁいうなら(?)に乗せて帰って見えて、勿論湯水も通らない、勿論言葉も出ないというほどしの、もういうならあの世行き寸前の状態であった。帰ってこられたことを聞かれて、綾部さんがお導きをされて、お参りをしてくるようになって、四日参って見えました。
お参りをされたあくる日から、その湯水だけではなくて、軽いものが頂けるようになった。二日目にはあの果物を何か上げようかと言うて、葡萄を見せながら、こうやってされるから、果物を頂かれた。毎日少しずつ頂かれる。それからちょうど四日目には、それこそあのものを言われた。人間というものはね。はぁこれは本当におかげ頂くかも知れんと、やっぱ、こう思われたんですよね。
それでまた改めてその、医者に電話を架けて、その医者の手当てを受けたらと言う事になって、医者にまた行かれた訳です。そこまでお取次させて貰っておりました。そしたら昨日、綾部さんを通してお届けがありましたけれども。丁度昨日ですかね、亡くなられたという事です。それがもう本当にもうそれこそ、痛みも苦しむ風もせずに、もう実にこう気分ようしておられて、身体を拭いてくれと言われる。
だから娘さんが、身体を綺麗にこう拭いてあげて、こう腕の辺りをこうやって、された時にもうそれこそ、ガクッとも行かなけれが、ゴロッとも言わなかった。そのままお国替え。もうそのいわば安楽往生と言うか、往生安楽と言うですか。往生安楽とはこう言う事だろうと言う様なお国替えであった。もうその事をもう、神様に本当にお願いをして頂いて、言うならもう今夜で食べ物も食べられまい。飲み物も飲まれまい。ものももうこのまま言う事も出来まいというのが。
飲む物も飲み食べる物も食べ、それからものまで言うてね。それから又その病院に行かれたが、その行かれた翌日には亡くなっておられる。その亡くなり方がね素晴らしい。これは私はあの何時も、お取次ぎさせて頂いて思うのですけれども。もうそれはこのお取次ぎを頂いて、お国替えのおかげを頂くというのは、例えばあの久富正義さんの家内のお母さんが子宮癌でした。もうそれは子宮癌で亡くなる時の苦しみと言うのは、それはもうそれこそ断末魔というですかね。
その苦しみと言うのは大変なものだそうですね。だから者からもその事を、ちゃんと言われておった。もうそういう難しいと言われるごつなってから、正義さんを通してお取次ぎをさせて頂いたが。勿論亡くなられましたが、もうそれこそ眠るような往生だったと。丁度その時に、あの御道の新聞が来ましたが。あるご信者さんがね。そのやっぱ子宮癌でお願いをして、おかげを頂いてそれから、お国替えをされたがあまりにも素晴らしいお国替えであったから。
その事から信心になってまぁ大変な、おかげを頂いておられるという話が出ておりましたがね。その辺の腹受け方頂き方ですね。お願いしとったばってん死んだと。例えばその死に際が、あまりにも医者からはもう、それこそ大変な苦しみですからね。もう身近なものは、そばに居られない位だと、と言われておるのがもうそれこそ、安楽往生のおかげを頂いたと言う事はです。言うならば死んだ先御霊の世界に入っても、それを同じご守護を受け続けることが出来ると言う事に他ならないのですからね。
その事が私は素晴らしい。綾部さん所に見えて、もう本当に勿論改めて、御礼には来させて頂きますけれども、そのお国替えがあまりにもその言うならば、見事なお国替えであったと言うのです。身体まで拭いてね。そして拭き上げてから腕の所を持たれて、こうされた時に、もう冷たくなられたとこう言うのです。本当に神様の私は働きと言うものをね。その感じてのいわば生活。そこにね言うならば尊い死生観と言うものは生まれてくるのですけれども。
昨日も熊谷さんの孫さんのね。白血病でもう五日しかない命と言うのが、おかげを頂いて、もう大変なおかげを頂いておる。すぐその隣に居られるやっぱり、同じ病気でこれももう七年何ヶ月という入院をしておられる。もうそれがもう大変な苦しみだそうです。もうそれこそ、お金はどれだけあるか分からんと言うほどしの方らしいですけれども。お金だけではどうにも出来ん。それがその熊谷さん所のお母さん、それからあの熊谷さんじゃない。石井さんですがね。
石井病院の奥さんです。そすと娘さんとがそのその事を、お母さんにお話をしても良かろうかと。そうら良かろう段じゃなかとにかくあんたこんなおかげ頂いて、お話せにゃいかん。それが合楽示現活動ばいと。ちょうど熊谷さんが二三日前の晩に、あちらにお出でられましたら、はじめて親先生からね。御神米を頂いてお書き下げを頂いた。お母さんこげな事を書いてやりなさったが、どう言う事ですかと言うて尋ねられる。だから私もその御神米に、合楽示現活動に参画と言う事を書いてやった
それで熊谷さんもうそれこそ待っとったと言わんばかりに、合楽示現と言う事について細々とね。合楽を現すと言う事ね。もうそれこそ神や仏様が不思議な働きを表されるという意味。だからそういうおかげを頂いて、そういうおかげを人にも伝えて、そういう一つの活動に参画させて貰うと言う事は、そういう働きに預からせて頂くと言う事だと、字引には書いてあるげなが、親先生は勿論、字引を見てそう言う事を言い出された訳じゃない。神様から頂かれた事を、言い出されたが。
その参画と言う事の意味の深さ、又は示現活動と言う事の意味の深さ、合楽と言う事の意味の深さを、もうそれこそまぁ芯からお話になったんです。そんならうちの隣の方が、こうこうだからお話を、私ぐらいのもんでも良かろうかと。どうぞ一つお話しをしなさい、お導きをしなさいと言うて、その話されたんです。それで昨日そのほんなら、お婆ちゃまあなたも伝えて下さいというので、電話を架けて熊谷さんもここへ見える、病院のほうからはその奥さんになる方と、あのお孫さん京子さんと言います。
人が三人でお参りをして来ております。それで私がねもうお参りをさせて、お願いをさせて頂いたら、必ず印があるからね。その印に一つ力を得て、あのしっかりお参りしてきなさいよと言うて、まぁ言うて夕方でしたが帰しました。所が今朝ここにちゃんとお届けがしてあるんです。朝鮮の方らしいです名前が李さんと言います。李はんぷくさんと言う方なんです。病人がねそれこそ何かの印を感じなさったからこそ、私は今朝からもまたお参りになっとるんだと思うのですね。ですからそういう働きがです。
死に際までではなくて死んだからとて、お世話にならん訳にはいくまいがと。この世におってもお世話になっておる事を、分からんなりにこの世を果てていく人が、どの位多いか分からんのですね。私は昨日、竹葉会の方達が、昨日共励日でしたけれども、前の度に話し合ってあったらしくて、葡萄狩りをすると言う事であった。私は知りませんでした。あただにそのお天気がこんな模様になったから会長さんがお届けをするんです。私はそら知らじゃったばいと。親先生も来て頂くごとなっとる。
んにゃ私は行かんそげんち言うとったです。そしたらおかげを頂いて、お天気になりましたからね。みんなで集まっておられるです。それで家内が言うて来ました。秋永先生も行きござるけん、あぁたが行きなさらにゃ、あんた悪はないですかち言うけん。そんならやっぱ行かにゃいくめいねと言うて、私も一緒にまぁ連れて行って頂いたんですけれども。まぁおかげを頂いてあちらで、お食事をさせてもらい、おビールでも頂いて、それから一服させて頂いて、皆さんは葡萄をちぎる人はちぎる。
色々まぁ二三時間もかかったでしょうか。そしたらお湿りが、ぽつぽつありだした。それで帰らせて頂いたら、今の方達がお参りしておったんです。しかもそれだけではなくて、もう次々ともう矢継ぎ早やに、私が居らなければと言う様な方達が、お参りしておった。ちょうど神様にお願いをした通り、お天気の上にも、丁度その葡萄狩りの楽しさも、有難さも分からせて頂いて、帰らせて頂いてからのことであった。
だから現世においても、ほんならそういうね。天地の降り照るの事に至るまで、願われるほどしの神様、また聞いて下さるほどしの神様なのですからね。言うなら死に際まではお願いしたばってん、あの世ではと言う事ではない。あの世でもこの神様のおかげを頂かなければならんのだけれども。この世ですらその神様のご恩恵を浴しておるご恩恵の中にあるんだ、生かされて生きておるのだと言う事を、知らずに果てていく人。
どういう事になるだろうか。それこそ苦しみに苦しんで亡くなるとするか。その苦しみが、あの世にまでも続くことは間違いありませんよね。この世で安心極楽の心を頂いておってこそあの世で安心の御霊として、または極楽の御霊としてのおかげが頂かれるのです。そこん所を教祖はね。死に際にもお願いをして、あの世に行ったら、もうお世話にならんで良いと言うのじゃない。
あの世でもお世話にならんのだから、死に際にもどうぞ良くなります様にじゃなくて、あの世に行きましてもどうぞ宜しゅうという願いをしろという事なんです。それを身をもって、四日間ではあるけれども、体験させて頂いてです。合楽の金光様に、お願いをさせて頂いてね。流動物が頂けれるようになった。あくる日は果物の味わいまで分からせて貰うた。おかげでものは、もう言えんままかと思うておったら、ものを二言三言は、言わせて頂くようなおかげを頂いて、そしてそれこそ眠るような。
往生安楽のおかげを頂いて、そのままあの世におかげを頂いていくと言うのですからね。縁を頂くと言う事は大変な事です。ね。そういう大変な事をです、この世でどれほど知らない人が多いかと言う事です。私は昨日葡萄狩りに行って一杯頂きましたものですから、ちょっときつくなって、皆さんはみんなその葡萄をちぎってられる。私は長くなって休んでおった。そして葡萄畑の下にこうやって、長うなって休んでおりますと、もうそれは広い広い葡萄畑ですから。
沢山な葡萄があの袋に包まれたまま、一杯下ってるんです。私はおおなかせに眺めてから、こうしておった所が、私の目にはその紙が全然、かかってないところを頂く。中身が言うなら見える。中身だけが見える。紙が見えないです。それで横に誰でしたかおったから、私は申しました。ほんにこの葡萄畑のこの袋がなかなら、そうにゃ綺麗なことじゃろう。それこそ藤の花がさ咲いとるように、見事じゃろうけれども紙で包んどるから、見えないけれどねと言うて、まぁ話したことでしたけれども。
私はそれがどういう意味だかそん時は分からなかった。ね。帰ってからその事を私は神様に頂いたがです。それこそ沢山なブドウ畑に、沢山な葡萄がなっておるがです。紙がかかっておるというのは、もう殆んど皆無と言うて良いほどしなのだと言う事です。もうこの世の中に、どれだけ沢山な、ほんなら人間ががおるかも分からんけれどもです。ね。言うならば、神様の御守護を御守護と感じておる者が、どれだけあるかと言う事です。私は修行中に、ある時に電車の上から、神様が教えて下さった。
あの丁度麦の麦畑をこう麦畑の中に、時々電車から黒いのが見えると。黒んぼですね麦に黒んぼというのがあるでしょう。所々出来るとがあるねあの黒んぼあの程度にでもです、ね。あの例えばその麦全体が、人間氏子とするならばです。あの黒ん穂程度にでも、信心する氏子がおってくれるとと言う事を頂いた事があるです。黒ん穂と言う事は言うなあ信心の修行をする人という意味でしょうね。信心の苦労をする人と言う事でしょう。ね。他の事には血道をあげて苦労を厭わんとしてするけれども。
信心の苦労信心の修行を進んでする者がいないと言う事が、そのまま神様の悲しみである事が分かります。昨日私はブドウ畑でもです。是程しの葡萄がですね。いや是程しの人間がおるけれどもね。地球上にそれだけおるか、私はよくは知りませんけれどもです。果たしてほんなら信心を真の信心を頂いて、信心の修行をさせて頂いてね。生かされて生きておる喜びを謳歌しながら、生活させておる人間がどれほどおるか。合楽に来てみてこんなに沢山おるごたるけれども、実を言うたらもうそれこそ、もうそれこそね。
麦畑の中の黒ん穂のような程度の事ではなかろうか。それをほんなら今合楽ではです。その黒ん穂の皆さんね。紙のかかっておる皆さん、神様の御守護を受けておると言う事を自覚をしておられる皆さん。しかも合楽にご神縁を頂いて、この方おかげで第一、病気がなくなった。おかげで貧乏でもする者はおらん。勿論争いなどのある事もない程しのです。おかげを頂いておる事に、改めて気付かせて頂いた。是が最近の合楽です。又合楽のご信者の皆さんの、言うならばそこの所に立っておられる。
そこの所を時点としてです。ね。私がまず極楽にあるんだと。極楽の世界と言うのは、いわゆる真善美を現していくという、ね。その真善美を現して行く所の生き方に、その答えにはです。先ず第一に病気がなくなる。それこそ合楽の皆さんが、もう薬箱もなくなったという人が幾らもある。それはね我を張ってどうかあるけれども、薬は飲まんと言う場合もありますけれども。ではなくてもう薬を頂かんですむほどしのおかげ。御神米ですら、お神酒さんですら、頂かんで済むほどしのおかげを頂いておると言う。
もうこれは大体においてですよ、ぽつんぽつんあってもです。それももう本当に御神米と、ほんならお神酒さんでおかげを頂けるという、言うならそういう尊い有難い道にご縁を頂いてこの方。ね。私共がそのおかげに対して、どう言う様な気持ちでおっただろうか。頂いても頂いてもまぁだ、おかげが頂き足らんごと思うとる。信心なしござらんけれどもあんなに健康。信心なし御座らんけれども、あんな分限者があると言う様な所にばっかり、目をやってです。
自分自身がおかげを、事実頂いておると言う事に気が付かなかった。それを気付かせて貰ってそれをいうなら、私は極楽宣言と言った皆さんに。極楽宣言と言う事は、私共だけではない、合楽にご神縁を頂いておる、言うならば、もうこの世の人ではない、御霊の世界の方達にまで、私は極楽宣言をさせて頂いたけれども、ね。あの世におって極楽のおかげを頂いておりながら、まぁだ極楽にある、自覚すら出来ていない御霊が、沢山あると言う事であった。ね。
だからそれが一人ひとり、あの世この世を通して極楽の自覚。もう自分がおかげを受けておる事実、ね。今日も健康で朝参りが出来た。帰って頂くお食事の美味しさ美味しさ。さぁ今から御用をさせて頂くぞと言うてです。朝の清々しいその気分をもって、お互いの御用に打ち込ませて頂く。もうそれこそ朝の清々しさ昼の忙しさ、今日も一日お使い廻しを頂いて有難し。そしてもう心の底から、神恩報謝の心を御祈念に表す。ね。そういう生活を繰り返させて頂いておるのだから、極楽でしょうもん。
極楽に行っておると言う事は、もう仕事はせんでん良かごつなると言う事じゃないです。ね。それこそゴルフが出来ると言う事が有難いのです。それにまず朝の清々しさ昼の忙しさ、夜の有難さを繰り返させて頂いて、ね。極楽に信心させて頂くようになって、この様なおかげが頂けておると言う事実がをです、ね。おかげをおかげと認めさせて貰うての生活。そこからおかげが生きてくるというのです。ね。そこから今までおかげを頂いておっても、おかげとも気付かない。いや頂き足らん様に思うておる。
そこにもうおかげは死んでおる。おかげが育つはずがない。だから何時までたっても、堂々巡りである。ね。そこん所を気付かせて頂いて、極楽の言うならば自覚が出来た。そこから、ね。それが頂いておる、今までのこのおかげと言うものが生きてくる。だからそのおかげは愈々、おかげからおかげを生んで行くという働きが生まれてくる。ね。そうしてほんなら、私がこのようなおかげを頂いておる。
極楽のおかげを頂いておると言う事に只ね。安住しておるだけではなくて、そこに座り込んでしまうのではなくて、ね。そして合楽を現していこう。合楽神も助かり氏子も立ち行く。氏子と神様が拝み合うて共に合楽、ね。共に極楽の味わいを味あわせて頂くというのが、合楽なんだ。だからそういう世界を、神様がどうぞ氏子信心して、おかげを受けてくれよというのはそれなんです。ね。
私は一番素晴しい事はね。神の願いを願いとしての信心に成る事だと思うです。ね。只どうぞ病気が治りますように。只お金が儲かりますようにと言う。只我情我欲的な願いからです。段々信心をさせて頂く事によって、神の願いが分かって来る様になる。神の心がこちらに通うてくるね。だから神様が願いとしておられる事を、又私共も願わせて頂くという、それが合楽なのですね。それをほんなら今の合楽の信心で、言葉で表現をするならばです。合楽示現活動に参画すると言う事なんです。ね。
自力的な信心から、言うならば他力的な信心に、合楽始まって二十五年。初めて言うならば合楽を現そうとかね。お導きをさせて貰おうとか。先日久留米の佐田さんの若奥さんが頂いておられるようにね。神様に人間氏子をお供えさせて貰う。いうならば合楽示現活動に参画させて貰うて、信心のしの字も分からなかった人に、信心を説き分からせる。そして神様との間に交流が出来るような、言うならばお導き運動なんです。ね。
しかも合楽の場合は、今のほんなら、例えばどう言う事でも、是は成就しない事がないというほどしだと頂いておる。ね。受けものがなからなきゃおかげは受けられん。半信半疑じゃおかげも半分。疑うてかかったらおかげも全部、もう嘘になると言った様な時代は過ぎてる。疑おうが半信半疑であろうがです。願うという気になったら神様は、おかげを下さるという働きが、今合楽にははじまっておる訳です。ね。
いうなら毎日、毎日がいうなら奇跡の連続だと、今言っておるのがそれなんです。おかげを受けておる人達が、信心が分かったとは、一つも思わない。それこそ半信半疑、疑い。もう無理に言われたから、ようやくお参りをして来たという様な人達が、助かっておるという事実なんです。なぜそういう働きがあるかと。ね。それこそ神様がね。氏子も立ち行き、神様も立ち行かれる。神様も助かられる世界を顕現したい。
いやそうしなければね、そうしなければもう、地球上の上におる人間のね、言うならば、もう無くなってしまうというか、破滅してしまうという様な時期が、近付いてきておるから、神様のほうが慌ててござるという感じです。だから一人でも、極楽を感じれれる。一人でもね。善人ね。わが心が、神に向こうておるという人達がです。一人でも多く出来ることはこの地球上から、一人余分に助かると言う事になるのだ。
と言う様な一つの危機感をです。今の地球上に、私共も感じるが、神様はそれを思うての事ではなかろうか。二十五年間、例えばお導きと言った様な事を、言うた事もなかった私がね。もう皆さんの顔さえ見れば、示現活動参画しなさい、ね。もう自分の例えば周辺の人は、みんなご神縁を頂いておると思うて、自分の周辺の人に信心を説きなさい。神様の話しをしなさい。自分のおかげを頂いておる話しをしなさい。ね。
それこそ葡萄畑で、私が感じたようにね。神様の御守護を受けておると言う事を、知らない人が沢山あると。それではもうそのまま、神様を知らんなりに、あの世行きであるという事。ね。魂を清める術を覚えたり、ね。真の道を分からせて頂いてです。おかげを頂くという事はとりもなおさず、そのまま天地金乃神様の願いなのです。だからその事を願ってその事を、私共は神様の手にも足にもならせて頂こうと言うのが、合楽示現活動に参画するという事なんです。ね。
神様の願いを見事にキャッチして、しかもそれを現して行こうという生き方。だからこれで、お徳を受けないはずはないという事なんです。人力車があった。はぁ便利なもんだと思うておった。ところが自動車が出来た。もう人力車は要らなくなった。ね。これが自然淘汰です。ね。今までは人力がいうならば、便利なもんだと思うておった。ね。その以前は、言うなら駕籠かきが、二人で駕籠をかいておったのが、人力車が出来たと言うて、人力車が重宝がられた。けれどもそん時にはもう駕籠はなくなった。
人力車が素晴しい、素晴しいと言うておる間に、ね。今度は自動車が普及してきた。そこでもう人力車に乗る者はおらん、いや要らなくなった。合楽の信心の、過去の信心は、もうある意味において要らなくなった。ね。いわゆる今ね。それこそ神様がですね。もう先に立っておかげを下さろうとする時代なんです。なぜそう言う事になるかと言うと。今申しますように早くおかげを見せて、奇跡の一つも、現して神様を認めさせなければ、もう間に合わんと言った様な、いうならば歓天喜地の時代なんです。
歓天喜地。ね。天が歓び地が喜ぶというのが、ね。神も助かり氏子も立ち行くと言う事、そういうおかげを願うておられるけれども、現在の間様のお心というものは、寒天危地である。天が寒い地は危ない、ね。そういう寒天危地の状態でおありになるのが、神様のお心なんです。そこで私共が歓天喜地。ね。神も喜び天も歓び、私共も喜べるという世界を顕現して行こうというのがです。今の合楽です。
過去の人力に乗っておったような時代は、もう過ぎ去った。過去のものである。そういう働きがね、今合楽に起こっておる。ね。ですからもう死の間際の人であってもです。ね。例えば本当に金光様を唱えただけで、いうならば安楽な往生が出来てあの世でも、そのままの御守護が受けられる道を付けて上げられるとしたらです。神様のお喜びはひとしお、私共もまた、おかげが受けられるという事になるのです。
今日は死んだからと言うて、神のおかげを受けずにはおられまいがと。ね。死に際にもお願いをせよと。金光様の信心は、ただこの世に所謂、この世でのご利益だけではなくて、あの世で愈々安心の御霊としてのおかげ。しかもそれがですね。昨日のお話の中にも申しましたように、子孫の反映に繋がるほどしのものでなからなければならないのですから、ね。それをほんならお徳とこう言うのです。
この世でも極楽の心を開かせて貰い。合楽示現活動と言う事によってです。いうならば力を頂き光を頂く。あの世にも持っていけれ、そしてこの世にも残しておけるというほどしの働き。今合楽でです、私は示現活動に参画すると言う事は、そういうおかげの頂けれるという事は、神様がその事を一番に、お願いとしておられる願いに参画する。その願いに応える信心、あり方にならせて貰うから、おかげが受けられるのですよね。
どうぞ。